〜キルギスでの7日間〜
キルギスとの出会いはまったくの偶然だった。
英語の勉強のためEメールで週に1、2回やりとりするようになった女性がたまたまキルギス人だったのである。彼女こそは今回のキルギス訪問でほんとうにお世話になったディナラである。ディナラはわたくしと同い年で当時キルギスの首都ビシュケクの世界銀行で働いていた。
その後、ある中央アジア関係のホームページを通じてキルギス訪問歴のある池田寿美子さんに、友好協会の存在を教えてもらうと同時に、当時国際交流基金のプログラムで日本で勉強していた、キルギス人のボロットを紹介してもらった。なかなか男前のボロットとはたいへん気が合い、新宿や渋谷・六本木などを飲み歩いた。渋谷のセンター街で黒くてやたらと高いサンダルを履いている渋谷の女の子たちに写真撮らせてくださいと声をかけ、おもいっきり彼女たちに無視されても、めげずに少し離れて写真を撮っていたボロットの姿がなつかしい(笑)。
いよいよボロットが帰国する前日の6月17日(木曜日)、浦和にある国際交流基金の寮で、ボロットと朝までふたりで飲んだ。わたしはまた会えるからと言い、「さようなら」は言わなかった。
バスに乗るボロットを見送った後、帰りの電車のなかで「いっそのこと今年の夏、キルギスにでも行ってみようかな…また司法試験にも落ちたし…」とふっと思った。気合を入れて望んだ試験に落ち、ちょっと気の抜けた状態だったわたしは、そう思うと急にわくわくしてきた。そのまま旅行代理店に行き、キルギスまでの航空券の手配を頼んだ。キルギスに入る方法として、ソウルを経由してカザフ共和国のアルマトイに入り、陸路でキルギスに入国する方法が一番いい。6月21日(月曜日)には、中央アジアビザセンターにキルギスのビザ取得の相談に行った。思った以上にビザの取得に手間とお金がかかるのでびっくり。結局、ビザの取得には29,250円かかった。そのうち、21,000円はインビテーションの取得手数料だ。ソウルまでの格安航空券がなかなか取れず、一時はマレーシア経由でウズベク共和国に入ってからキルギスへ行く方法なども検討したが、どうにか出発予定日の3日ほど前になって航空券の手配ができた。航空券は往復13万円だった。
7月18日(日曜日)、13:30に成田を経ったアシアナは、定刻どおり16:00にソウルの金浦国際空港に。はじめての海外、それもひとりだったのでちょっと緊張した。ソウルで2日ほど遊んだ後、いよいよ7月20日(火曜日)21:30、一路カザフ共和国のアルマトイへ。
7月21日(水曜日)現地時間の深夜1:40分ごろ、アルマトイ国際空港に到着。「さあ、いよいよここまで来たぞ!」。なんかわくわくして興奮してきた。入国審査のお兄さんに「スパシーバ!」と言ったのにニコリともしてくれない(笑)。入国審査の際、機内で書いておいたカスタム・デクラレーションという所持金を申告する用紙を2部作成し、そのうち1部を提出した。もう1部は出国の際提出するのだ。
入国審査を終えその部屋から出ると、大勢のタクシーの呼び込みのおじさん達に混じって、知ってる顔。ディナラがわざわざキルギスの首都ビシュケクから迎えに来てくれていたのだ。ディナラは、3月いっぱいで世界銀行を辞めてウズベク共和国の会社に転職していたが、しばらくしてメールで連絡をとれなくなり心配していた。出発の10日ぐらい前になってようやく連絡がとれるようになった。彼女はウズベク共和国で足の先がなにかの細菌に感染し、歩くのが不自由になってしまった。そのため、ウズベクの会社を辞め、ビシュケクの自宅で療養していたのだった。日本を発つ2日ほど前に彼女と国際電話で話しをし、「なにも心配いらない」と言ってはくれていたが、やはり心配だったのでとてもうれしかった。ボロットが通訳の仕事などで多忙だったので、ディナラが唯一の頼みの綱だった。彼女はボロットとも連絡を取り合い、わたしのキルギス訪問が快適なものとなるようすべてにわたりとても配慮してくれていた。
ディナラのほかに、車をビシュケクからアルマトイまで運転してきてくれた、彼女の親友のノルベク、ディナラの親友ラウシャンらカザフ人女性がふたりほど来てくれていた。車内で聞きなれぬロシア語が飛び交うなか、市内とはいえ真っ暗な道を走っているとき、なんとも心細いやら不思議な気持ちだった。暗いなかに点在する商店やレストランの明かりがとても幻想的だ。
アルマトイのラウシャンの家で3、4時間仮眠したのち、朝9:00ごろいよいよキルギスの首都ビシュケクに向けてくもり空のアルマトイを車で出発。キルギス領内に入るや否や快晴になり、暑いので上着を脱ごうとしたら、風邪をひいてはこまるとディナラにとめられた。ディナラは終始こんな感じで世話をやいてくれた。ちょっとうるさかったけど(笑)。13:00ごろ、ビシュケクの中心部にあるディナラのアパートに着いた。ディナラはこのアパートに母親と、弟の大学生トゥラルベク(足の不自由なディナラに代わって主に彼がわたしの案内をしてくれた。とても物静かで誠実な青年だった。)、そして大学受験をしたばかりのクリーチベク(お兄さんのトゥラルとは対照的に活動的な性格だった。)と住んでいた。このディナラのアパートが基本的にキルギスでのわたくしの宿となった。
昼食の後、15:00ごろ早速、トゥラルベクと外国人登録に行った。彼も場所が分からなかったので、日本センターに行きその場にいた職員のマセキトシコさんに場所を聞いた。彼女はとてもロシア語うまくてトゥラルも最初日本人とは分からなかったと言っていた。場所は分かったものの、すでに銀行が閉まっていて登録料を支払うことができずその日は登録ができなかった。銀行の営業時間は8:00〜12:00ごろのようだ。帰り道、1ドル=38ソムのレートでドルを現地通過のソムに両替。50ドル・100ドルといった高額紙幣の方がややレートが高かった。
その夜の夕食は、わたしのために米料理プロフにしてくれた。美味しかったものの、ちょっと脂っこくチャイばかり飲んでいた。とにかくたくさん食べるまで許してくれない。今回のキルギス訪問でつらかったのは、シャワーを浴びれなかったこと(ディナラの家はわたくしの滞在中だれも浴びていなかった)と、自分の前にどんどん出される料理を食べることだった。残すことは失礼だと思い必死に食べた。食事のあと、20:00ごろディナラとふたりでドイツ風の居酒屋に飲みに行った。ディナラが日本の繁栄を賞賛するので、わたしは地理的・歴史的に日本は運がいいだけだとを謙遜して言ったところ、「それでは私たちは運が悪いことになる。キルギスでそういう言い方はやめてほしい」と言われた。独立後、生活水準はどんどん悪くなっているようだ。去年、お父さんを亡くした彼女の家にとってわたしの滞在はかなり負担になると思った。何回もガソリン代だけはを出すと強く言ったが、けっして受けとってくれなかった。
22日(木曜日)、朝8:00ごろトゥラルとともに銀行へ前日できなかった外国人登録のため登録料(50ソム)を支払いに行き、その足で10:00ごろ登録を済ませた。トゥラルがいたからよかったものの、もし一人だったらロシア語の分からないわたしがちゃんとできたかどうか。
昼食後の13:30ごろ、トゥラルと、彼の親友で絵仲間のドイツ系キルギス人ダニエルと、キルギスで一番行ってみたかったあこがれのイシククル湖に向けてタクシーで出発。ダニエルは英語が話せないので、わたしとのコミュニケーションはロシア語、キルギス語、ドイツ語、英語、日本語(ダニエルはよく「バンザイ!」「腹切り!」と叫んでいた!)の単語まじりのジェスチャーだったが、愉快でほんとうにいい奴で二十代後半のわたしと年が近いせいもあってすぐ打ち解けた。よくふたりで、まだ22才前後のトゥラルをなにかにつけて「トゥラル…キンダー!(子供という意味のドイツ語キントの複数形。なぜか複数形)」と言って馬鹿にしてた(笑)。
イシククルの北側の中心チョルポン・アタ近くのボステリというところに16:30ごろ到着。さっそく、3人でイシククル湖に行ってみた。夕日に映えるその姿を目の当たりにする。とても感動的だ。しかし、キルギスに来て以来、ゆっくり休む暇もなく疲労がピークに達していたわたしは段々元気がなくなり、「キルギスに来て以来、ゆっくり休む時間がない」とキレてしまい、20:00ごろひとりでさっと寝てしまった。彼らは近くの野外ディスコに行ったようだった。
23日(金曜日)、7:00ごろ起床。朝から快晴。10時間以上爆睡したおかげて、朝から異常に元気。泊まった場所は、現地の人々が利用し観光客の泊まらないような粗末な小屋だった。そのため彼らはわたしに少し気兼ねしていたが、「学生時代登山をしていたわたくしはどこでも寝れるので、ここはとても快適だ。」と言ったら、ダニエルが「ユー、ロマンチスト!」と言い、とても喜んでいた。9:00ごろ近くのバザールに食材を買いに行く。10:30ごろ名コックでもあるダニエルが腕を奮い、玉ねぎ・ピーマン・卵・トマトなどが入ったトルコ風の料理を作ってくれた。とにかくうまかった!でも、食前にウオッカを一気飲みさせるのはやめてほしい(笑)!
11:00ごろ、いよいよイシククルに泳ぎに。思ったより水は冷たくなかった。しかし、水はまずかった。思いっきり泳ぎまくった。朝買っておいたスイカを湖で冷やして食べた。日本といっしょだ。
その日の夕食はプロフを作ってくれた。宿のおばさんに「おまえたちが朝食を作るとき、ガスを使いすぎてガスがなくなった!」と怒られる。しかたがないから、外で石をくんで作る。ダニエルのプロフがまたうまい!例によって、ダニエルにウオッカを一気に飲まされて、1時間半ほどひっくりかえる。
21:30ごろ、今夜はわたしも彼らといしょにディスコに踊りにいく。アメリカの黒人の間でうまれたHIPHOPダンスをしていたら、まだ、キルギスではめずらしいらしくジロジロ見られる。カザフ共和国のアルマトイから来ていた、ナターシャら3人の女の子と知り合い(ナンパして?)、いっしょに踊る。夢中になって踊っていたら、DJが「TOKYOなんとかかんとか…」と言った。ナターシャがわたしが東京から来ていることをDJに言ってくれたらしい。こんなところで意外にも「東京」という言葉を聞いてとてもうれしかった。ディスコは深夜0:00きっかりに警官が入ってきて閉店になった。ふっと空を見上げる。星がとてもきれいだ。
24日(土曜日)、この日も快晴。午前中、イシククルに泳ぎにいった。トゥラルとダニエルは絵を描きにどっかに行ってしまった。ひとりで対岸の天山の山々を見ながら、物思いに耽ける。未だに自分がキルギスにいるのが信じられない。暑くて異常に喉が渇いたので、売店でファンタを買った。キルギスでは、コカコーラとファンタ以外のジュースを見なかった。実は、これがはじめての買い物だった。カタコトのロシア語が通じてちょっとうれしい。
16:00ごろイシククルを後にし、20:00ごろビシュケクに着いた。ディナラの家には、国立民族大学の大学院生クバヌチベク(クバちゃんと自分で言っていた)、彼の妹で同大学の女子大生のグルメラ、同じく女子大生のラウシャンが来ていた。グルメラもラウシャンも愛らしくなかなかかかわいい!。ニタニタしてしまった(笑)。法学を専攻しているクバちゃんは、旧ソ連の日本語弁論大会2位、中央アジアの大会で1位の日本語の腕前で、東洋学部で日本語を勉強しているラウシャンも片言の日本語ができた。ボロットが通訳の仕事などで多忙なため、ディナラが気をつかって日本語のできる彼らを呼んでくれのだ。また、ディナラのいとこたちも来ていて、とても賑やかな夕食となった。しかし、休む間もなくわたしに対する質問の集中砲火は、正直疲れた。
その夜は、クバちゃんのところに泊まることになった(なっていた?)。彼の車でクバちゃんの家に行く。はじめてソ連製の車に乗ったが、キュルルルルーっと、エンジンの音がとにかくすごい!クバちゃんの家には、妹のグルメラがつくってくれていたラグマンといううどんのようなものが用意してあった。せっかくつくってくれたものだが、さっきディナラの家で限界まで食べた後だったので、ほとんど食べれなかった。クバちゃんと明け方までキルギスの将来についてなどいろいろ語り合った。彼は外国企業を誘致するための法整備について勉強するため、文部省のプログラムで日本に留学したがっていた。とても正義感があり、熱いハートももった奴なのでぜひとも審査に通ってほしい。
25日(月曜日)、この日は、ブラナの塔やアクベシム遺跡に車で連れていってくれるらしい。近くにディナラのお母さんの実家があるので、ディナラのお母さん、トゥラル、クリーチベクとまずそこに寄る。16:00ごろ着いた。長老のおじいさんをはじめそれこそ一族が歓迎してくれた。ボロットが日本でくれたキルギス帽?をかぶって行ったら、おじいさんがとても喜んでくれた。おじいさんがわたしに立派なキルギス帽をくれた。軽い食事のあと、ディナラの伯父さんが車でアクベシム遺跡やブラナの塔にと連れて行ってくれた。途中、湧き水が飲めるところがあって、久しぶりに炭酸の入ってない普通の水を飲むことができた。炭酸入りのミネラルウォーターだけはどうしてもなじめなかった。
ビシュケクへの帰路、ディナラのアパートに戻ると思いきや、車は22:15ごろラウシャンの家についた。そこになんとボロットがいた。久しぶりの再会(といっても1ヶ月ぶりだけど)。とても感動した。キルギスに戻ったボロットは9月から民族大学の東洋学部で日本語を教えることになっている。東洋学部の学生であるラウシャンの先生になるわけだ。そのせいか、ラウシャンはちょっと緊張していた。
その夜は、ボロットのところに泊まることになり、23:30ごろ、ボロットの家に向かう。ボロットの家では、きれいな奥さん(幼なじみらしい)ととても愛らしい3、4才の娘さんが出迎えてくれた。ママにしがみついて見知らぬをわたしをじっと見つめる姿がかわいい。ここでもたくさんの料理をつくってくれていたが、ラウシャンの家で夕食を取ったばかりだったので、ほとんど食べることができなかった。ウオッカを飲みながらいろいろ語った。3:30ごろキッチン以外に一部屋しかないので、みんなで寝た。わたしだけソファーを倒したベッドで、彼らが床だったのでとてもすまなく思った。
26日(月曜日)、8:00ごろ起床し、ボロットが通訳の仕事に行く前に彼の新しい職場である民族大学の東洋学部を案内してくれた。その後、ディナラの家に戻った。この日は、アラ・アルチャ自然公園に行くことになっている。ディナラの弟のトゥラル、クリーチベク、そして、ラウシャンとわたしの4人で車で出かけた。穴だらけのビシュケクの道を猛スピードで走るクレージーなクリーチの運転のおかげで1時間そこそこでアラ・アルチャ自然公園に着いた。日本の山よりふた周りほど大きくとにかく雄大だった。
21:00ちょうど、ラウシャンが再びディナラの家にやってきた。キルギス最後の夜を楽しんでもらうため、脚の病気で自由にわたしと動き回れないディナラが気をつかってわたしとラウシャンとのデートをセットしたてくれていたのだった。
わたしは、はやくラウシャンとふたりきりになりたかったが、表に出てもなかなかトゥラルとクバちゃんが消えてくれない。クバちゃんが散々ひやかすのでお互い身体を叩き合っていた。ようやく、ふたりきりになれて夜のビシュケクのデートが始まった。真っ暗なビシュケクの市内をラウシャンの案内で散歩したのち、けっこう大きなディスコに行った。踊っていたのは、韓国人か中国人かのアジア系の人たちとロシア系の女の子だけだった。
27日(火曜日)、この日の夕方ビシュケクを後にすることになっている。朝9:00過ぎ、クバちゃんが押しかけてきた。12:30ごろまでずっとクバちゃんが日本に留学するため日本の文部省に提出するアプリケーションをみてあげる。キルギスから選ばれるのは一人らしい。ライバルは大勢いるのでクバちゃんも必死だ。その後、クバちゃんとビシュケク市内を観てまわる。キルギス最終日にしてようやくゆっくりビシュケク市内をぶらぶらと歩くことができた。バザールでは、わたしを日本人と知った少年が大きなメロンをくれた。
18:00ごろ、キルギスに入国する際も運転してくれたノルベク、そしてクリーチベクと共に、アルマトイに向けて車で出発。飛行機の離陸時間は翌3:10。まだ時間がある。アルマトイに住んでいる彼らの親友のロシア系カザフ人ローマの家に寄る。熊のような体格のローマにウオッカを立て続けに3杯一気に飲まされダウン。気がついたら寝室にいた。まだ意識が朦朧としているなか、たたき起こされアルマトイ国際空港へ。彼らと別れ出国審査の際、入国の際記入して今提出しなければならないカスタム・デクラレーションがどこを探しても見つからない。まだ酔っていたわたしは、ディナラの家に忘れてきたと勝手に思い込んだ。へべれけの状態で「キルギスのディナラという女性の家にある」ととても通用しそうもない言い訳をした。係官の女性に100ドル払えとか言われ半べそ状態に(笑)。動揺で震える手でカウンターの上に有り金を全部ぶちまけたら、100ドルもなかった。韓国ウオンや円もまぜて数えた。5千円札を手にとって、「この紙幣はドルに換算すると○○ドルだ」とか言っていたら、隣にいた上司らしい男性の係官がなぜか許してくれた。逃げるように搭乗手続きへ。アシ アナに乗って自分の席についたときはほんとうにほっとした。一時はどうなることかと思った。
なお、ディナラの家に忘れてきたと思っていたデクラレーションは、家に帰って荷物の整理をしたら出てきた(笑)。
はじめてのキルギス訪問は、ディナラをはじめ多くの人々のおかげで大成功だった。ディナラの病気が完治することを願ってやまない。
平成11年10月6日(水曜日)